土曜日に暑い中ゴルフ練習で150球打ち込んで以来腰痛です。(汗)
9iが絶好調だったので懸案のドライバーを打ち込み過ぎたためか?トホホです。

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え~他の人が書かないことを書いてますが(笑)、
もう約500冊近くゴルフ本の書評を書いていると、
読みたいと思うゴルフ本がなくなり苦労していたのだが、先日気が付いた。

電子書籍はKindle端末に加え、Android端末(スマホ)でも読めることに改めて気が付いた。

ただamazonの中古本と価格を比べた場合、まだ高い場合が多いので使用したことがなかったのだが、以前からamazonのゴルフ本検索で度々書名を目にしていながら読んでなかった昔の文豪のゴルフ随筆を読むことにした。

最初は0円の以下の3冊をスマホでダウンロードしてみた。
これは時代的にエッセイというより随筆と表現した方がよいので以下随筆とします。

感想はスマホでも十分でしたな。
あれっ?と思うほどあっけなく、これが有料なら後悔したほどの文章の短さ。(笑)

ゴルフと「悪い仲間」ゴルフと「悪い仲間」
(2012/10/04)
坂口 安吾

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青空文庫 坂口安吾 ゴルフと「悪い仲間」

 六月十五日
 昨夜来徹夜。正午すぎ講談倶楽部原稿書きおわる。それから一パイやってるところへ新潮の菅原君来訪。小林秀雄、今日出海両君とゴルフ対戦のことで話があった。両君側の意見ではコースは両居住地の中間ぐらいのところに定めたい由。これには賛成。次にハンディが欲しい由。これには反対。
 両君はボクのゴルフを買いかぶっているようだ。ボクのゴルフはうまくない。ボクは去年、家主の書上文左衛門さんにすすめられてゴルフをはじめた。書上さんの邸内には雨の日でも夜間でも練習できるインドアの練習場があって、桐生にゴルフクラブができたとき専用の練習場ができるまでここで最初の練習をはじめた。そのときボクもすすめられて入会したのだが、専用の練習場ができてのちもボクだけはひきつづき書上邸内の練習場へプロを招いて毎週一度ずつレッスンをうけた。三人のプロから約一年半レッスンをうけた。この一冬中はボクの家に若いプロを一人下宿させておいた。けれども身辺にプロがいてくれるとかえって練習を怠りやすく、効果はアベコベであった。
 このようにボクのゴルフは基本だけは確実にレッスンをうけたが、近所にコースがないので、実際の競技には経験がすくない。家から自動車で四十五分のところに駐留軍のゴルフコースがあるが、このコースがボクに出入の自由を許可してくれたのはやっと三日前のことだ。それまでは許可を得ている少数の日本人の誰かに許可証をかりてたまにひそかにもぐりこんで練習する以外に手がなかったのである。インドアではアプローチとパターの練習ができないから、コースへでるとスコアはひどくわるい。パターで四ツも五ツもころがさないと穴ボコへはいらない有様である。だから人にハンディをあげられるような腕前には程遠いのである。しかし三日前に近所のコースから許可がおりたところへ菅原君の話であるから、ボクも大そう乗気になった。

 十六日
 久々の晴天。朝九時にゴルフに出発。女房より、本日ヒルすぎに安岡君来訪の由注意があったが、ヒルすぎにもいろいろある。東京から桐生まで三時間かかるのにヒルすぎてまもなく到着ということは考えられない。そのヒルすぎは正午から夕方まで、つまり夕方や夜ではないというだけの意味で、その中間の三時ごろのことだろうと断定。一時半に帰る予定で出発した。久々のコースは広さに面くらうばかり、タマを打ってるような気がしない。それでも二百二三十が二度でたが、パターは五ツ七ツころがす有様であった。たいがいのアプローチに七番を使うとなんとなく間に合う。こういうのは良くないのだろう。プロに直してもらいたいと思ったが、この日プロは欠勤であった。予定の一時半に帰宅。
 安岡君の一行すでに来着。はからざる次第。早朝に文春記者に叩き起された由である。この一週間ほど前に河出書房のF君が来て、自分は安岡君の悪友で「悪い仲間」その他のモデルだと名乗り、安岡君について一席弁じていった。むやみに人に絶交したがる男だと云っていた。しかし、安岡君の方がだいぶおとなしい感じ。外面如ボサツというのかも知れん。絶交するのはもっぱらF君の方ですとは安岡君の説であった。ボクの青年時代にも今は死んだけれどもF君のような悪い仲間がいて絶交したりされたりしたのを思いだした。奴は臨終の瞬間においてすら「幽霊になってでてやる」と云ってボクをおどかしたのである。しかし奴のユーレイはでなかった。

 十七日
 菊水よりパイプの原木送ったという通知あり。ブライヤーの原木だ。手製のパイプをつくることにしたのである。自分の手製を示してボクにも作ることをすすめたのは入江元彦だ。安岡君の奥さんは入江元彦の従妹だそうだ。彼とF君は同道して桐生に現れ、F君は安野君について、入江元彦はその奥さんについて各々一席弁じて去ったのである。こういう変なのがつながって歩いているというのは珍しい現象であろう。
 キングの斎藤君到着。一しょに映画を見に行く。
 何を書いてよいか見当がつかないから、夕食中、斎藤君が大声で新聞の「人生案内」をボクによんできかせはじめた。急に気がついて「人生案内」という戯作を書く気になり、すぐひッこんで書きはじめた。』

底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房  1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文学界 第八巻第八号」 1954(昭和29)年8月1日発行
初出:「文学界 第八巻第八号」 1954(昭和29)年8月1日発行

ゴルフ随行記ゴルフ随行記
(2012/09/13)
寺田 寅彦

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青空文庫 寺田寅彦 ゴルフ随行記

 ずっと前からM君にゴルフの仲間入りをすすめられ、多少の誘惑は感じているが、今日までのところでは頑強に抵抗して云う事を聞かないでいる。しかしとにかく一度ゴルフ場へお伴をして見学だけさせてもらおうということになって、今年の六月末のある水曜日の午前に二人で駒込こまごめから円タクを拾って赤羽あかばねのリンクへ出かけた。空梅雨からつゆに代表的な天気で、今にも降り出しそうな空が不得要領に晴れ、太陽が照りつけるというよりはむしろ空気自身が白っぽく光り輝いているような天候であった。
 震災前と比べて王子おうじ赤羽界隈かいわいの変り方のはげしいのに驚いた。近頃の東京近郊の面目を一新させた因子のうちで最も有効なものと云えば、コンクリートの鋪装道路であろうと思われる。道路に土が顔を出している処には近代都市は存在しないということになるらしい。
 荒川放水路の水量を調節する近代科学的閘門こうもんの上を通って土手を数町川下へさがると右にクラブハウスがあり左にリンクが展開している。
 クラブの建物はいつか覗のぞいてみた朝霞あさか村のなどに比べるとかなり謙遜な木造平家で、どこかの田舎の学校の運動場にでもありそうなインテリ気分のものである。休憩室の土間の壁面にメンバーの名札がずらりと並んでいる。ハンディキャップの数で等級別に並べてあるそうだが、やはり上手な人の数が少なくて、上手でない人の数が多いから不思議である。黒板に競技の得点表のようなものが書いてある。一等から十等まで賞が出ている。これなら楽しみが多いことであろう。賞品は次の日曜日に渡しますとある。人間いくら年をとっても時には子供時代の喜びを復活させる希望を捨てなくてもいいのである。
 M夫人が到着したのでそろそろ出掛ける。
 一体の地面よりは一段高い芝生の上に小さな猪口ちょこの底を抜いて俯伏うつぶせにしたような円錐形の台を置いて、その上にあの白い綺麗なボールを載せておいて、それをあのクラブの頭でひっぱたくと一種独特の愉快な音がする。飛んで行った球がもう下り始めるかと思う頃に却かえってのし上がって行ってそれから落ちることがある。夫人の球が時々途中から右の方へカーヴを描く。球がそれて土手の斜面に落ちると罰金だそうである。
 河畔の蘆あしの中でしきりに葭切よしきりが鳴いている。草原には矮小わいしょうな夾竹桃きょうちくとうがただ一輪真赤に咲いている。綺麗に刈りならした芝生の中に立って正に打出されようとする白い球を凝視していると芝生全体が自分をのせて空中に泛うかんでいるような気がしてくる。日射病の兆候でもないらしい。全く何も比較の尺度のない一様な緑の視界はわれわれの空間に対する感官を無能にするらしい。
 途中から文科のN君が一緒になった。三人のプレイが素人目しろうとめに見てもそれぞれちゃんとはっきりした特徴があって面白い。クラブと球との衝撃によって生ずる音の音色まで人々で違うような気がするのである。科学者のM君は積分的効果インテグラルエフェクトを狙って着実なる戦法をとっているらしく、フランス文学のN君はエスプリとエランの恍惚境を望んでドライブしているらしく、M夫人の球はその近代的闊達と明朗をもってしてもやはりどこか女性らしいやさしさたおやかさをもっているように見えた。口の悪いN君がM夫人の球を「どうも右傾だな」と云ったが間もなくN君自身の球が右傾して荒川の水にその姿を没した。夫人の胸中も自ずから平らかなるを得たようである。
 キャディが雲雀ひばりの巣を見付けた。草原の真唯中に、何一つ被蔽物ひへいぶつもなく全く無限の大空に向って開放された巣の中には可愛い卵子が五つ、その卵形の大きい方の頂点を上向けて頭を並べている。その上端の方が著しく濃い褐色に染まっている。その色が濃くなるとじきに孵化ふかするのだとキャディがいう。早くかえらないと、万一誰かの右傾した球が落ちかかって来れば、この可愛い五つ生命の卵子は同時につぶされそうである。巣は小さな笊ざるのような形をしていて、思いの外に精巧な細工である。これこそ本能的母性愛の生み出した天然の芸術であろう。
 荒川が急に逆様さかさまに流れ出したと思ったら、コースがいつの間にか百八十度廻転して帰り路になっていた。
 キャディが三人、一人はスマートで一人はほがらかな顔をしているがいずれも襟頸えりくびの皮膚が渋紙色に見事に染めあげられている。もう一人はなんだか元気がなくて襟頸もあまり焼けていない。どうした訳かと聞いてみるとまだ新米しんまいだそうである。まだ新米にさえもならない自分の顔がその日どんなであったかは自分には分らない。疲れはしないかと三人から度々聞かれた。
 このキャディのような環境におかれた少年は例えば昔の本郷青木堂の小店員のごとく大概妙に悪ずれがしてくるものであるが、ここの子供達はそんな風が目に立たない。このリンクの御客が概して地味で真面目で威張らない人の多いせいかもしれない。
 いつか、このキャディのうちの一人がリンクの池で鮒ふなを一匹つかまえて、ボールを洗う四角な水桶の中に入れておいて、一廻りした後に取りに来たらもう見えなかったそうである。こんなのんびりした世界でさえも、自分の手でしっかり握っていない限り私有物の所有権は確定しないものと見える。してみるとやっぱり自分の腕以外にたよりになる財産はないかもしれない。
 ゴルフもだんだん見ているとなかなか六かしい複雑な技術だということが少しは分って来る。少なくも、単に棒の頭で球をなぐって飛ばせると云うだけではないことがわずかに一時間半ばかりの見学でよく分ったような気がした。この日M君N君の解説を聞いたことだけから考えても、すべての芸道に共通な要領がゴルフの術にも要求されていることが分る。一番大事なものはやはり心の自由風流であるらしい。
 人間が球を飛ばせたり転がしたりする遊戯の種類が一体どのくらいあるか数え切れないほどあるらしい。近代的のものでもゴルフの外に庭球野球蹴球しゅうきゅう籠球ろうきゅう排球などがあり、今は流行はやらぬクリケット、クロケーから、室内用にはピンポン、ビリアードそれから例のコリントゲームまである。日本の昔でも手鞠てまりや打毬だきゅうや蹴鞠けまりはかなり古いものらしい。
 人間ばかりかと思うと、猫などが喜んで紙を丸めたボールをころがすのが、なんら直接功利的な目的があってするとは思われないから、やはりスポーツの一種らしく思われる。尤もこれは結果から見ると鼠を捕えたりするときに必要な運動の敏活さを修練するに有効かもしれない。家畜の糞を丸めてボールを作り転がし歩く黄金虫こがねむしがある。あれは生活の資料を運搬する労働ではあろうがとにかく人間から見ると一種の球技である。
 オットセイは鼻の頭で鞠まりをつく芸当に堪能である。あれはこの動物にとっては全く飼主の曲馬師から褒美の鮮魚一尾を貰うための労役に過ぎないであろうが、娯楽のために入場券を買ってはいった観客の眼には立派な一つの球技として観賞されるであろう。不思議なのはこの動物にそういう芸を仕込まれ得る素質がどうして備わっているかということである。彼等の自然の生活に何かしらこれに似た所行がありはしないかという疑問が起る。
 動物の場合にはこれらの球技は直接間接に食うための労役である。人間の場合においては、球技を職業とする人は格別、普通にはとにかく不生産的の遊戯であり、日常生活の営みからの臨時転向アヴオケーションである。こう思ってしまえば誠に簡単であるが、自分にはどうもそうばかりとは思われない。人間が色々な球を弄もてあそぶことに興味を感じるのには、もっと深い本能的な起源があるのではないかという気がする。例えば人間の文化の曙光時代にわれわれの祖先のまた祖先が生きて行くために必要であったある技術と因果の連鎖でこっそりつながれているのではないかという空想も起されないことはない。
 もしか、そうであったと仮定すると、昔は腹を張らせるために使用された球が今では腹をへらすために使われている勘定になる。
 赤羽のリンク半日の清遊の帰り途に、円タクに揺られているうちにこんな空想が白日の夢のように頭の中をかすめて通ったのであった。

 ついでながら、人間のする大概の所業は動物界にもその原型を見出すことが出来るが、ただ「煙」をこしらえてそれを吸うという芸当だけは全く人間だけに限るようである。それでこの最も人間的な人間固有の享楽と慰安に資料を供給する専売局の仕事はこの点で最も独自なものであると云われるかもしれない。それでこの機会を利用して専売局に敬意を表すると同時に、当事者がますます煙草に関する科学的芸術的ないし経済的研究を進められて、今よりも一層優良な煙草を一層廉価れんかで供給されんことを希望する次第である。(昭和九年八月『専売協会誌』)

底本:「寺田寅彦全集 第四巻」岩波書店 1997(平成9)年3月5日発行

ゴルフ・パンツははいていまいゴルフ・パンツははいていまい
(2012/10/03)
宮本 百合子

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青空文庫 宮本百合子 ゴルフ・パンツははいていまい

これは、いかにもひま人らしい質問です。同時に、一寸ニクマレ口をきかしてもらえば、いかにも婦人雑誌の特徴を発揮した質問です。
 なぜなら、恋愛問題だけをきりはなし、例えば正月、炬燵こたつにあたったり、ハイカラなら、電熱ストーブにでもあたりながら、
「ねえ、今度恋愛するとしたら、どんなのしたい?」
「さあ」
「婦人公論の新年号みた? あるわよ、いろんなのが……」
などという会話をとりかわすのは、一体どんな婦人及彼女の彼氏たちでありましょうか?
 朝六時に、霜でカンカンに凍った道を赤い鼻緒の中歯下駄で踏みながら、正月になっても去年のショールに顔をうずめて工場へ出かける十一時間労働の娘さんをそういう会話の主人公として想像するのは困難です。どうも、ウェーヴした前髪、少くとも銘仙の派手な羽織、彼女の坐っているのはよし古風なコタツであろうとも、座布団のわきにはハンド・バッグがありそうに思われる。――つまりこれは読者のきわめて小ブルジョア的興味によびかけ何枚かの銀貨を釣り出そうとする、ブルジョア婦人雑誌つきものの猫とそのシッポの如き題目なのであります。
 さて、この質問の題を見ると、「今度恋愛するとしたら」とある。前に恋愛をした君が、こんどやるなら、という意味でありましょう。
 それで、私のところへこの質問がよこされたわけが分ります。私はなるほど、これまでいくつか小さい恋愛をし、最後には旦那に熱中しているという意味で「ダンネ」という恐るべきアダ名を弟及その友達たちにつけられるに至った。
 それが中折れして、今は女の友達と暮している。だから定めし今度の恋愛には申し分があろうと思われたらしい。
 第一に恋愛というものを、私は社会的階級的全生活の一部分として理解しているが、決して恋が命とは考えていません。心中する芝居を見るとカンシャクをおこす女であります。
 又、恋愛はひどく、その人の程度=イデオロギー的にも、性格的にも=を示すものであります。何とか彼とか、偉そうなこと、つよそうなこと、階級的そうなことを云っても、対手の女を見ると、その男の非公式な部分、書いてない部分が露出している。
 女の場合も同じです。
 芸術や恋愛が、階級性ぬきのどこやら超現実的なもののように感じられているとしたら、とんだ間違いです。
 一人の女が小ブルジョア的な人道主義、偸安主義の生活を何かの必然的動機ですて、プロレタリア解放のために一つの役割をもって生活するようになれば、キット、生活の変化は恋愛と恋愛観の変化を起すにきまっている。
 そうではありませんか?
 例えばK子は、これまで通りK会社へ勤めてはいる。けれど、会社がひければ或る日は研究会へ出席し、或る日曜日は全協[#「全協」に×傍点]の一般使用人組合の仕事を手伝わなければならなくなって来た。
 それだのに、彼O氏は、K子の生活変化の必然性を理解しないばかりか、会えば宵の七時から十二時までぶっつづけにくッついていなければ怒る。日曜日ごとにゴルフとまでは行かないプチブルらしくベビー・ゴルフというものへ、半ズボンはいて行くO氏のお伴をしなければ、不和を生じるという場合、どうしてK子はO氏との恋愛をよろこび、共に発育して行く人間らしい楽しみを感じることが出来ましょう。
 時間的に先ずやりきれなくなり、O氏の生活態度がイヤになり、サヨナラとなるのは当然ではありますまいか。
 いやにならなければ、K子の嘘つき! です。O氏は、その場合、キネマ仕込みの口笛を街の風に向って吹き、恋愛は自由だ、ララララと思うかもしれない。が、ほんとにこの資本主義社会で恋愛は自由でありましょうか?
 ブルジョア婦人解放論者は、経済的独立は婦人を解放すると叫ぶ。それを真にうけ独立したいから、女学校の上に英語の勉強までして会社に入る。――果して、彼女たちの三十円ならしの月給は、独立するに十分でしょうか?
 恋愛して、母となる時、では会社は月給つきの休暇を四ヵ月くれますか? 姙娠五ヵ月以上、十ヵ月未満の赤坊のある婦人は決して解雇しないという労働法を、会社は適用するでしょうか?
 恋愛が自由でないのはバカにもわかる。愉快な恋愛を健康にするには、この資本主義の社会とは違った経済的基礎、制度、ものの考えかたがいる。
 そういう社会をお互に一日も早くつくりたいと、私もペンを武器とし仲間とともに働いているわけですが、K子の例でもわかるとおり、そういう自分が××株式会社の重役とかその弟とか、従弟とかというもの=柳瀬正夢の漫画の人物、所謂アミーになろうとは考えられないではありませんか。 〔一九三二年一月〕

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行 1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房 1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人公論」 1932(昭和7)年1月号



amazonのKindle版のゴルフ本で無料なのは確かこの有名な文豪の古い3冊の随筆だけだったと思うけど、この内容を見る限り、ゴルフ本というより随筆の中に少しあったゴルフに少し触れた文章という方が正しいか?

特に宮本百合子のものはゴルフというただの単語だったけど、寺田寅彦は初ゴルフ随行でゴルフの本質をよく描写していて、さすが文豪って感じがします。

ところでなぜKindle版のものをここにコピペ出来てるかという疑問には、Kindle版があまりにも短すぎたので、タイトルをネットで検索したら、これらは青空文庫のものでそのために無料であることに気が付いたのだ。

「青空文庫(あおぞらぶんこ)」とは、
『日本国内において著作権が消滅した文学作品、あるいは著作権は消滅していないものの著作権者が当該サイトにおける送信可能化を許諾した文学作品を収集・公開しているインターネット上の電子図書館である。富田倫生・野口英司・八巻美恵・らんむろ・さてぃの4人が呼びかけ人となって発足した。
「本を電子化して、誰でも読めるようにしておくと面白い」そう考える者、数人が集まって、青空文庫は生まれました。
「こんなことができないか?」と相談をはじめたのは、1997年の2月です。ほんの数タイトルを並べ、〈開館〉にこぎ着けたのは、この年の8月でした。 その後、新しい仲間が加わり、作業を分担してくれる人たちが次々と現れて、活動は広がっていました。』 ということらしいです。

で、ここには坂口安吾の「スコア屋でないゴルフ」「ゴルフをしなかった話」 などのゴルフに関する随筆もありましたな。

どちらにせよ、今後は価格と内容のバランスを慎重に見ながらKindle版にも手を広げていきますわ。

え~ワシのこのゴルフ本の評価は3冊まとめて★★★です。(満点は★五つ)
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